家族の森
母と娘が暮らす家は、どこにでもあるような静かな住宅街の一角にあった。夜になると、古い木造の柱が、いつものように小さな音を立てていた。それは、家が眠る前の呼吸のようでもあった。
その夜、ふたりは偶然、よく似た夢を見た。細い獣道をたどって森の奥へ入っていく。空気はしっとりとしていて、夏の終わりの気配がどこか混じっていた。どちらの夢にも、途中で倒れた大きな木が橋のように横たわっていた。
朝、食卓で気まぐれに娘が口を開いた。「森の夢、見たんだけど……なんかね、迷ったの」母は驚いてスプーンを落としそうになった。「え、私もよ。倒れた木、見なかった?」「見た。なんでだろうね」
ふたりはしばらく黙って、同じ方向を見ていた。外の景色も、コーヒーの香りも、すべてが少し違って見えた。
その日のお昼すぎ、娘は突然、引っ越したいとつぶやいた。「なんかね、もっと広い空気が吸いたいの。急にそう思った」母も、心の奥底で同じ気持ちを抱えていたことを、ようやく言葉にする勇気が出た。
夢はいつも理由を教えてくれない。ただ、身体の奥の奥にある“これから”の方向を、ひっそり指で示すだけだ。
その週末、ふたりは新しい街へ向かう電車に乗った。窓の外に流れる景色を見ながら、夢の森の匂いが、まだかすかに残っているのを感じていた。
夢はときどき、人より先に未来の空気を吸って、準備ができたら小さなサインを置いていく。それが、森や倒木や風景のふりをして現れるだけなのかもしれない。
白い鳥
離れた土地で暮らすふたりの友人は、少しぎこちないまま、何ヶ月も連絡を取っていなかった。本当は互いに気にしていたけれど、言葉にしそびれた想いのほうが勝ってしまったのだ。
その夜、海を越えた場所で同時に、ふたりは似た夢を見た。
部屋の窓が静かに開き、風と一緒に白い鳥がすっと入ってくる。羽ばたく音はとてもやわらかくて、一瞬、時間が止まったように感じられる。鳥は何かを伝えるような目をして、窓辺に光の粒をひとつ落としていった。
翌朝、ひとりが夢の余韻に包まれながら目覚めた。胸の奥が、不思議なあたたかさで満ちていた。携帯を手にした指が、知らないうちに友人の名前を押していた。
「どうしてかわからないけど、あなたのこと思い出した。」送信ボタンを押したあと、しばらく手が震えていた。
数時間後、相手から返事が来た。「私も、同じような夢を見たよ。白い鳥が来て、なんだか泣きそうになった。」
ふたりはぽつぽつと言葉を交わしはじめ、気づけば、ぎこちなさはどこかへ消えていた。
夢がすべてを解決するわけではない。でも、行き場のなかった気持ちが、ふっと流れ出すきっかけにはなる。白い鳥は、きっとそのために来たのだろう。
夢では、ときどき光が形を取って“鳥のふり”をすることがある。それは夢を使って、言えなかった言葉をそっと代わりに届けてくれたのだろう。
橋を渡る
三人の同僚は、同じ職場にいながら、互いの疲れを知らないふりをしていた。忙しい毎日は、気づかないうちに人間の心をすこしずつ削ってしまうのだ。
ある夜、三人はそれぞれまったく別の場所で眠りについたが、翌朝、休憩室での何気ない会話から、似たような夢を見たことがわかった。
霧が深い場所に、一本の細い橋がかかっている。足元は不安定で、向こう岸はよく見えない。ひとりは、迷いながらも橋を渡りきっていた。ひとりは、真ん中で立ち止まり、霧を見つめていた。もうひとりは、橋の前でためらって、そこから先へ進めないまま目が覚めた。
「なんか…不思議じゃない?」「夢で同じ橋を見るなんてね」
それから数日後、部門再編の知らせが届いた。新しいチーム、新しいルール、なにがどう変わるのか、誰にもまだ見えていなかった。
けれど、三人はあの夢の橋を思い出していた。渡りきった人、途中の人、手前で立ち止まった人──どれも今の彼ら自身の姿にどこか重なっていた。
夢は未来を決めてしまうわけじゃない。でも、まだ言葉にできない揺れや迷いを淡い光で照らしてくれることはある。三人は、あの日の橋の静けさを胸のどこかにしまい、それぞれのペースで前に進み始めた。
夢の橋は、現実の橋とは違って、“自分の内面で越えようとしている境界線”を象徴することが多い。三人はそれぞれのペースで前に進むことを選んだ。夢が教えてくれるたのは、「どのペースでもいい」という静かな真実なのかもしれない。